「落花流水~メロン記念日にたそがれて・・・~」(今回の話題は、知らないやつは頼むから何でもかんでもアクセスしないでください)
しかし、俺のブログにくる奴ってのは、「はてなブログ」は読んだら義理人情、お慈悲でスターをつけるのが最低限のマナーだってことを知らないのか?
さて、
この人とか、
この人とか、
インタビュー記事を読むと20代は暗黒時代だったらしい。
かく言う私も、20代は頼まれても戻りたくない暗黒時代であった。
こんなブログでは具体的に何が暗黒なのか書いたりはしないけどな。
あれはまだ20代だったか・・・・・
とにかく30代から突如やってきた「遅れてきた青春時代」で心血注いだのが
彼女たちだった。
「ザ☆ピース!」と夏のツアーだけだったが、この「黄金の9人」時代は文字通り平和だったよな。
(わかる人にはわかる)
モーニング娘。やハロー!プロジェクトのコンサートがあるとなると、毎週末は土日で各昼夜公演、要するに週末4公演のコンサート参戦が当たり前。
コンサート会場やインターネットで知り合った仲間たちと行動を共にして、それなりに楽しい日々を過ごしていた。
しかし、私が本当に心の底から青春をぶつけて、時代と共に生きてきたのが、
メロン記念日というグループであった。
彼女たちはテレビ番組「アイドルをさがせ!」(通称「アイさが」)内で行われた「第2回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション」を経て選ばれた4人の女の子で結成されたグループだった。
今になってみると、見ているこちらが恥ずかしくなる芋姉ちゃんたち(苦笑)
村田めぐみ(宮城県出身)
大谷雅恵(北海道出身)
柴田あゆみ(神奈川県出身)
斉藤瞳(新潟県出身)
ま、ぶっちゃけ言ってしまうと、ピンクレディーもキャンディースも結成から解散までメンバーチェンジはなかったのだが、今の時代において1つのアイドルグループが10年間1度もメンバーチェンジなしでやりきることは奇跡以外の何ものでもないだろう。
【第一章】This is 運命編
「甘いあなたの味」(売り上げ累計約8千5百枚)でデビューし、「告白記念日」」(売り上げ累計約8千7百枚)~「電話待ってます」(売り上げ累計約6千9百枚)と3枚のシングルを発売した彼女たちだったが、
数字が表すように全く売れず・・・。
ハロー!プロジェクトのコンサート(通称ハロコン)でも、観客からしてみるとどちらかというとトイレタイムの扱いだった。
「もはやこれまで・・・・」
時代劇だと悪の親玉のこの一声をきっかけに最後の捨て身の一斉攻撃で、決まって暴れん坊将軍こと吉宗こと松平健の「成敗!」の一言で配下の御庭番に切られて終わりなのだが、まさに「もはやこれまで」状態であった。
しかし、ここで起死回生の逆転サヨナラ満塁ホームランが生まれる。
メロン記念日4枚目のシングル「This is 運命」
まさに彼女たちの運命を変えた1曲であった。
https://youtu.be/V8oIZpaO4rI
今までのスタイル、ハロプロのアイドル像をぶち壊し、エド・ウッド顔負けの超低予算MV。バラバラの服装は「グループ」よりメンバー個人の個性を全面に出すという方向にベクトルを向けた格好だ。
ベートーベンの「運命」のオマージュから曲は始まる。
そしてふつふつと煮え立ったマグマは「♪その先どうする~」で一気に堰を切る。
デジロックというか、メロディックハンクというか、今までのアイドルソングにはなかった楽曲がこの瞬間に生まれた。
メロンはこの曲で、今後もアイドルを続けていける権利と、自らのキャリアの中で、コンサートで必ず盛り上がる最大のキラーチューンを手に入れたのである。
そしてこの年、東京(神田YMCA)と大阪(天王寺のアポロホール)で初のファンクラブイベントが開催された。
貸し会議室のような部屋で本当に手作り感満載のイベントであったが、その時にメンバーの斉藤瞳に話しかけた「次は単独コンサートですね!」という問いかけに対しての「はい!がんばります!!」という明るい返事に、彼女たちの将来を期待せずにはいられなかった。
♪愛のボタンを連打!連打!」のフレーズで、ファンの間ではおなじみの曲。カップリング曲も含めてライブではあばれる君系の曲である。
運命の次作は、パンクからジャングルビートに衣替えをしたものの基本路線は踏襲していた。
売り上げ累計2万枚だから、運命より売れた。というより運命が確実に起爆剤になっていた。
このリリース時にも前回より規模が大きくなり参加者も大幅に増えたファンクラブイベントが行われたのだが、
某所でのイベントに参加した私は
「そうだ!帰りの新幹線のお見送りに行かねば!」という使命感にかられ、駅まで行った。
「俺しかいねーし・・・・・」
おかげで4対1でのお見送りという至高の時を過ごせた。でも大谷さんはシャイ過ぎて、kioskで何か買い物してた時に話しかけたら一緒にいた村田さんのほうを指差して行ってしまったな。(彼女としゃべれ、ってことだったかな)
窓越しにジェスチャーで会話をして、4人ともこちらが追いかけられなくなるまで手を振ってくれた。
「死ぬまで応援します」
固く誓った瞬間だった。
【第二章】メロン記念日、「充実期」と「迷走期」と「混沌期」の負のスパイラル突入編
夏の夜はデインジャー!(2002年6月19日)
運命~連打&ガルパとキラーチューンがきて、これからのメロンがどうなっていくのか期待に胸を膨らませていた矢先、プロデュースにつんく♂が「復帰」した。
この曲が好きという人も多いのだが、歌詞を読んでもちっともデインジャーではなく、前2作とは打って変わって凡庸なレトロポップに、釈然としない思いを抱いた人も多かったと思う。
私がその筆頭だ。(笑)
香水(2002年10月23日)
柴田あゆみを全面に押し出した、イントロがプロコル・ハルムの「青い影」のオマージュようなハモンドオルガンから始まるスローバラードで、他の3人のメンバーはコーラスに徹している曲だ。
この年の12月、メロン記念日は待望の単独コンサートが開催された。しかし、そこで誰もが驚愕の光景を目にした。(ガチンコみたいだな(笑))
雪もちらついた真冬の赤坂BLITZ。
1曲目の「香水」でモッシュが起き、本編ラストの「運命」でサーフやダイブをする観客が続出したのだ。何故スローバラードでモッシュが起きたのかは未だに不明(笑)
このコンサートで、かねてより言われていた「メロン記念日は楽器を持たないロックバンド」というパブリックイメージが確立した。それ以降ライブ会場には常にパンクやロックバンドのTシャツを着て参戦する客の姿が増えた。
赤いフリージア(2003年1月29日)
キャリア最大のスマッシュヒットである。オリコン10位までいったのか。
テレビ番組への出演も増えた。
むしろコアなファンはスカコア炸裂のカップリング曲「遠慮はなしよ!」に狂喜乱舞した(笑)
『アルバム』1st Anniversary(2003年3月12日)
チャンス of LOVE(2003年5月8日)
MI DA RA 摩天楼(2003年9月10日)
かわいい彼(2003年12月3日)
絶頂期ともいえる2003年は年間4枚のシングルリリースである。ファーストアルバムも発売された。
その年の12月。私は彼女たちのキャリアの中でも問答無用で最高のステージだったと断言できるコンサートが渋谷公会堂で行われた。
「超渋メロン」
ファンクラブ先行で落とされ、一般発売は電話が繋がらず、泣く泣くヤフーオークションにお世話になった。でもあの公演はよかった。
私にとってはメロン記念日はここで解散した。彼女たちは天に召還した。メロンはここで終わった。
それくらい圧倒的なステージだった。
ここから先はフィギュアスケートにハマったり、結婚したりでメロン記念日は一歩引いた距離から見るようになったのだ。
涙の太陽(2004年6月9日)
シャンパンの恋(2004年10月27日)
『アルバム』THE 二枚目(2004年12月1日)
肉体は正直なEROS(2005年2月9日)
このあたりのCDは義務と使命感だけで買ったような気がする。多分1回聞いたくらいで終わっている。売り上げ累計も1万枚すら大きく割り込むようになったのだから。
【第三章】終わりの始まり
エロス以降メロン記念日はCDを出せなくなった。
春、夏、冬にライブツアーはあり、その他ミュージカルや舞台への主演、客演も多々あった。
一見活動は順調である。
しかし、私は肌で感じていた。何とも言えぬ閉塞感を。いわゆるコアなファンとライトなファンと一般人との温度差が激しくなってきたことを。
もともとがさほど大きくないパイ(π)の中での世界。しかもパイは大きくならない。
各地でコンサートやイベントが行われるのはいいが、毎回どこに行っても同じ面子が同じように盛り上がるだけで、その面子が全国大移動をするだけ。
バーチャルではライブ会場が満員でも、パイがどんどん小さくなっているという危機感をどれだけの人が持っていたであろうか?
赤いフリージアの時点である程度舞い込んできた新規ファンが定着しなかったとも言える。
また、ロック→ポップス→謎→ポップス→ロック→謎、のような路線の迷走ぶり(クリエイター陣は、その場しのぎで先見の明のある奴がいなかったんだな)も、古参のファンの何割かがいつの間にか消えていた遠因にもなったと言える。
2006年6月。久しぶりに新曲が出た。ただしCDはインディーズとしての発売であった。そもそも私はこういうイカサマなインディーズっていう使い方が気に入らない。結局このCDだって発売元はアップフロントワークス。昔のゼティマじゃないか。インディーズってのはハードコアパンクのバンドがサラ金からお金を借りたり楽器を質屋に入れたりパチスロで儲けた金で死物狂いで制作するもんである。昔の知り合いは練習スタジオにカセットレコーダーを持ち込み、そこで録音したものを必死でダビングして専門店に卸したり、雑誌に広告を載せて売っていた。
本来はそういうもんだ。
で、それはともかくライブ会場限定販売された新譜「お願い!魅惑のターゲット」はメロン記念日の歴史に残る名曲だった。
作詞:上田ケンジ。説明不要。作曲:田中秀典。最近の仕事では関ジャニへの楽曲提供が有名。
アレンジ:宮永治郎。昔はZONE、最近はスキャンダルやKis-My-Ft2への楽曲提供で有名。様々な歌手、アーティストのコンサートに引っ張りだこ。
レコード店への流通がないのが残念だった。
コンサートのMCでとあるメンバーかこう宣言した。
「メロン記念日はこれからはロックでいく!」と。
復活を予感した・・・・・。
【第四章】終焉と瓦解
その年の冬のコンサートツアーで、半年前に「ロックでいく」と力強く言い放ったメンバーがMCで
「そういうことを言ってた時期もありました」と言い、なんか自分の中では「あ、これは終わったかな」という思いが頭をよぎった。
あの「ターゲット」は何だったんだ!?、と。
一旦行き詰まって、そこをなんとか突破したあの路線をまた変えるのか、と。
同時期にリリースされたシングル「アンフォゲッタブル」。
特に何か言うこともない凡庸な曲。4千枚売れなかったんだよね。
その一方で私は投書などで直接は言わなかったが、ファンサイトの掲示板などに「メロン記念日、こうしたほうがいい」という類の書き込みをしていた。
制作陣に外注の起用
ロックバンドとの共演(フェスへの出演などどんどん「外」に出す)
コンサートで洋楽のカバーを歌う
たまたま偶然なんだろうが、関係者がインターネットを見ていたのか、随分いろんなことが「実現」した。
超渋で終わったとか言ってた奴が随分偉そうに出たものである(笑)
この時期メロン記念日は「メロングリーティング」という定期イベントを打っていた。ただし、ゲストは同じハロープロジェクトの面々。内向きなイベントである。
「メロンラウンジ」というクラブイベントもやっていた。これはメンバーやゲストがDJになり皿を回すイベント。
その頃私は毎月のようにメンバーにファンレターを送っていた。(笑)
だいたい大→大→斉→柴→村→大→大→斉→大
という感じだった。
あるメンバーには毎回毎回おすすめ洋楽CDをプレゼントしていた。
誕生日、クリスマス、イベント、バレンタイン、タワレコで何かいいやつ見つけた時・・・。
郵便物の受け取り先である事務所も「またこいつか!」って思ったことであろう。
そして、そういうプレゼントってちゃんと本人に渡っているんだね。
ことあるごとにCDをプレゼントしていたあるメンバーは、ラジオ番組の選曲、ラウンジでのプレイリスト。どう考えても私があげたCDの曲をかけまくってくれていた。
極めつけはラウンジ1周年イベントでの彼女のDJタイムである。
最初から最後まで約9割が私があげたCDからのプレイだった。なんかめちゃめちゃ嬉しかったね。アリスターやアリスターのボーカルのスコット・マーフィーはツボだったんだな。
何かの雑誌のインタビューで今フォールアウトボーイとフーバスタンクが好きと言ってたのを見たが、フォールアウトボーイはあの輸入盤が売れまくった1STアルバムを彼女にあげた(送った)んだ。しかも自作のレビュー付きで(笑)
2人にしかわからない幸せだったよなぁ。
【第五章】遅きに失した
2009年の6月から、メロン記念日は「ロック化計画」と称して月代わりでロックバンドとのコラボシングルをタワレコ限定でリリースすることになった。
「ロックって・・・またですか?(白い目)」
率直な印象だった。
運命の頃からやっていればよかったものを。
とりあえずビート・クルセイダース、ニューロティカ、ミドリ、コレクターズ、ゴーイングアンダーグラウンドという一生懸命オファーを出した甲斐のある豪華なメンバーが揃った。
まぁ、ニューロティカは修豚さんがいた頃から知っていたさ。ハイドラや我殺もIBシンガーも知っている世代だし。
だからといって「何を今更」というのが私の印象だった。
その年の夏のライブツアーでは明らかに「異変」があった。地方会場ではZeppでスタンディングではなく椅子が並べられたのだ。
確実に動員が落ちていた。
既にこの時期から妙な胸騒ぎがしていた。
そして、その翌年、私はちょうどタイから帰ってきた時で、朝、空港でスポーツ新聞を買った時芸能欄に小さな記事を見つけた。
「メロン記念日解散。5月3日が解散コンサート」と・・・。
ファンクラブ「メロン記念部」(ハロー!プロジェクトから枝分かれして「独立」した単独のファンクラブ)のチケット先行予約。中野サンプラザで1列目が来た。
ZONEの解散から未だに立ち直れていなかった(笑)私に更に追い討ちをかける出来事であっただけに、そんなに前の列が来たことは熱心にファンをやっていてよかったが、
実は中野サンプラザって1列の前にX列が何列かあるんだよね(笑)
でも、その前の席の面子や、自分の周りの顔ぶれを見ていると、ファンクラブは公平な抽選をしておらず、事務所サイドから見て「あ、こいつはよく応援してくれたなぁ」って人に前の席を割り振ってくれたような気がする。
(んなこたぁないか(笑))
当日「おっ、アイツ、俺よりずっと後ろじゃん」(へっへっへー)って思いましたね。(笑)
この日以降今度は本気で私はフェードアウトした。解散してすぐメンバーの1人がお笑いタレントと結婚したとか、それが1年で離婚したとか、東日本大震災の募金活動で4人が集結したとか、ハロープロジェクトのコンサートで「再結成」して歌ったとか、何を耳にしても「あっ、そうですか」程度の反応しかなかった。
「超渋」で一旦区切りをつけているので、その後の余生は楽に過ごせたし、いとも簡単に自分は成仏できたと思っていた。
シングル3枚で撃沈するはずだったグループが10年続いた奇跡。そして、私にとっては遅れてきた青春時代を共に全力疾走させてくれた彼女たちには心の底から感謝している。
太平洋戦争末期。アメリカとの比較にもならない戦力差があり「すぐ落ちる」と言われたベリリュー、硫黄島、沖縄を必死で守った旧日本軍に相通ずるものがある、というのは間違った例えか!?
メロン記念日は私にとっては永遠の存在だ・・・
あの頃、共にライブハウスで一緒にモッシュしたり水を撒いたりした人たち、今何してるの~?
真面目に生きてますか~?
おじさん、でんぱ組のファンやってますよー。(笑)